この俺を最後まで?

ゲームとか舞台とかコンサートとかの感想。残しておきたいやつ。

K Lost small worldを見て

私達は常に推しから置いていかれている。

KLost small worldのBlu-rayが届いた。
生で見た時にすでに映像だった伊佐那社は、そこにいる夜刀神狗朗よりすでに過去のものであり、ここにあるBlu-ray本編の映像において、一番過去の映像だった。
私がやばい。伊佐那社やばい。などと高木さんにリプを送った直後、凌くんのブログが更新され、そこには男水の撮影が楽しいとの内容が書かれていた。

やばい。
また置いていかれていると思った。

思えば私たちが彼らと同じ時間を共有できる仕事は舞台を見に行ったときだけだ。 ドラマも映画も舞台のDVDや配信も同じ時間ではない。そこにあるのは過去の彼ら。恋をするには遅すぎる。

Kステ第3弾は1弾2弾より過去の話だった。本編では冒頭から死んでいる十束多々良、その以前から死んでいる三輪一言、二章の最後で死んでしまう周防尊が生きている。
その代わりに、伊佐那社はまだ存在していない世界。

伊佐那社はKという物語の主役であり、Kにおける本編の始まりで生まれ、そして最終話で形を変えて生き残る。
伊佐那社が伊佐那社であった期間は短い。

「あの飛行船に乗れていたら何か代わったのかな」

飛行船の中にはアドルフKヴァイスマンがいる。何十年も地上に降りず、大切な友人が暮らす鎮目町上空を規則正しくまわり続ける不変不死の王。変化を望んでいた猿比古と美咲と阿耶が目指していた場所にいるのは不変の王というのは因果を感じる。
結局たどり着いても何も変わらなかったのではないかとそこにいる王を知る視聴者は思う。
けれど、同時に物語が変わっていた可能性だってあるわけで。アドルフKヴァイスマン自体をもしも変えることが出来たのなら。例えば、もしそこで3人がアドルフKヴァイスマンと暮らすことや白銀のクランズマンにでもなれば、無色の王に体を取られることもなく、十束多々良を殺すこともなく、ネコと出会うことも、夜刀神狗朗と出会うこともなかったかもしれない。
その時、伊佐那社が存在しない未来が生まれる。Kは始まらない。
伊佐那社が存在するためにはたくさんの偶然が必要だから。

Kの1期はknightで始まりKINGで終わる。1話に出てくるknightと言えば夜刀神狗朗であり、最終話に出てくるKINGと言えば伊佐那社である。Kは二人の物語だと私は思っている。

バックステージで、植ちゃんは何度もこれは3弾であり、ここまでの座長伊佐那社こと松田凌がいたからKステは今ここにあるというようなことを言っている。私は植ちゃんに生きていてもいいのだと言われた気がした。

私はKが好きだ。

見始めた動機はどうしようもなく不純で、舞台を見に行くために見たのだけれど、気がつけば大好きになり、漫画も小説も大多数を集めてしまった。Kは面白い。

だけど、私のKが好きの根底には伊佐那社が好きがあり、Kステが好きには松田凌が好きがある。出ていない役者のトレブロを集める姿は滑稽に見えただろうと思う。どうして見に来ちゃったんだろうと思いながら席につき、始まったロスモワを見て、来てよかったと思った。やっぱりKが好きだった。泣きたくなるほどKが好きで、この世界にずっと浸っていたいと思った。

ロスモワは置き去りにされる話だ。
伏見仁希と伏見杞紗に置き去りにされていた猿比古は美咲と大貝阿耶を置き去りにして、青のクランに行く。

役者の過去の映像を見てその姿をいつまでも好きだと未来になんて行かないでくれと願う私は、あんなに一緒だったのにどうしてと猿比古に問う美咲に似ているかもしれない。